この10月、カスハラ対策がすべての企業の義務になる

コールセンターで、40分におよぶ叱責の電話がようやく切れる。オペレーターは一つ深呼吸をして、何事もなかったように次の着信を取る。店頭では、返品規定を説明した若手社員が「上を出せ」と怒声を浴び、駆けつけた店長がひたすら頭を下げる。どちらも、珍しい光景ではありません。そして多くの職場で、こうした時間は「接客業なら、まあ、あることだから」という一言で片づけられてきました。

その扱いが、変わります。改正労働施策総合推進法により、2026年10月1日から、カスタマーハラスメント対策がすべての企業の義務になります。大企業だけの話ではありません。従業員を一人でも雇っていれば、対象です。

企業に求められることは、大きく三つあります。カスハラを許さないという方針を明確にし、社内外に示すこと。被害を受けた従業員が相談できる体制を整えること。そして実際に起きたときには、事実を確認し、従業員を守り、心身のケアまで含めた対応を迅速にとること。おおまかに言えば、パワハラ対策で企業がすでに義務づけられている枠組みを、顧客からのハラスメントにも広げる、という建て付けです。東京都や北海道、群馬県では2025年4月に防止条例が先行して施行されており、この10月をもって、カスハラ対策は「先進的な会社の取り組み」から「すべての会社の標準装備」へと変わります。

いま多くの人事・総務部門が、規程の整備、マニュアルの作成、相談窓口の設置、研修の手配に追われていることと思います。どれも必要な仕事です。ただ、施行日から逆算した準備を進めながら、ふと感じてはいないでしょうか。「規程と窓口ができれば、現場は本当に守られるのだろうか」と。

その引っかかりは、おそらく正しいのです。

唯一「増え続けている」ハラスメント

まず、いま起きていることを数字で確かめておきます。厚生労働省が実施した直近の実態調査(令和5年度)によると、過去3年間にカスハラの相談があった企業は27.9%。前回調査(令和2年度)の19.5%から8.4ポイント増えました。相談件数の増減を聞いても、カスハラは「増加している」(23.2%)が「減少している」(11.4%)を大きく上回ります。パワハラやセクハラでは「減少している」と答える企業のほうが多いことを考えると、対照は鮮やかです。長年の対策が少しずつ効いてきた社内のハラスメントに対し、顧客からのハラスメントだけが、いまも増え続けています。

被害は接客の最前線に集中しています。労働者側の回答では、過去3年間にカスハラを経験した人は全体の10.8%ですが、生活関連サービス業や娯楽業では16.6%、卸売・小売業、宿泊・飲食サービス業でも16.0%にのぼります。顧客と毎日接する人に限れば17.4%。ほとんど接しない人(5.3%)の3倍以上です。

ところが同じ調査で、カスハラへの取り組みを聞かれた企業の55.8%が「特にない」と答えています。被害は増えている。最前線は削られている。それでも、半分以上の会社に備えがない。法改正は、この放置されてきたギャップを埋めるためのものです。

では、規程と窓口ができれば、ギャップは埋まるのでしょうか。ここからが本題です。

制度は、声が上がってから動く。問題は、声が上がらないことにある

同じ調査は、カスハラが人に何を残すかも記録しています。何度も繰り返し経験した人では、64.4%が怒りや不安を感じ、57.5%が仕事への意欲を失い、26.4%が眠れなくなっています。理不尽な罵声を浴びた日も、次のお客様には笑顔で向き合う。その切り替えを一日に何度も繰り返す消耗が、数字の裏側にあります。

見過ごせないのは、その先です。勤務先がカスハラの発生を認識していたケースでも、29.8%は「特に何もしなかった」と従業員は答えています。会社は知っていた。それでも、何も起きなかった。この経験をした人が、新しくできた相談窓口に、わざわざ足を運ぶでしょうか。

もう一つ、窓口の前に立ちはだかる壁があります。被害を受けた本人の側の、ためらいです。接客や営業の現場には、「お客様相手なのだから、それくらい流せて一人前」という空気が長く流れてきました。理不尽に耐えることが、暗黙のうちにスキルとして数えられてきたのです。この空気の中では、被害を受けた本人ほど「この程度で騒ぐのは、自分の対応力が足りないからだ」と考えます。相談すれば、クレーム処理もできない人だと評価されるかもしれない。お客様を悪く言うようで気も引ける。そうして声は、上がる前に飲み込まれます。

相談窓口は、本人が声を上げて初めて動く仕組みです。声が上がらない職場では、立派な窓口も静かなままです。そして沈黙は、対策が要らないことの証明ではありません。多くの場合、諦めの証明です。

窓口の手前に、日々の気づきがある

だとすれば、対策の実効性を分けるのは、窓口の有無ではありません。声にならないサインに、まわりが気づけるかどうかです。

電話を切ったあとの表情がいつもと違う。特定の顧客の名前が出ると口数が減る。ミスが増えた。休みがちになった。こうした変化は日報にも報告書にも載りませんが、毎日隣で働いている上司や同僚には見えています。見えたときに、「今日の対応、大変だったね。少し話す?」と声をかけられるか。それとも「あのお客さんは昔からああだから」と流してしまうか。この小さな分かれ目の積み重ねが、「うちの会社は守ってくれる」という信頼をつくりもすれば、「言っても無駄だ」という諦めをつくりもします。

方針の明確化も、本体は掲示物ではありません。理不尽な要求の矢面に部下が立たされたとき、管理職がその場で、あるいはその日のうちに、「あれはお客様の要望ではなく、ハラスメントだ。あなたの対応に落ち度はない」と言い切れるかどうかです。この一言があるかないかで、同じ出来事の意味は、本人の中でまったく違うものになります。我慢を美徳としてきた空気は、規程では書き換えられません。日々のやり取りの中で、少しずつ塗り替えていくしかないのです。

仕組みの面でも、感情を前提にした設計はできます。長時間の対応は一人に抱えさせず、途中で交代する。悪質なケースは現場で謝り続けさせず、早い段階で上席や本部に引き上げる。対応の記録を残し、同じ顧客の情報を共有しておく。どれも、「一人の我慢」で吸収してきたものを「組織の手順」に変える作業です。

こうして見ると、カスハラ対策という仕事の本体が見えてきます。規程づくりの仕事であると同時に、それ以上に、人の感情を扱う仕事です。傷ついた人の変化に気づき、受け止め、「守られている」という実感に変えていく。加えて、部下の痛みを受け止め続ける管理職自身も消耗しますから、自分の疲弊に気づいて手当てすることも、この仕事の一部です。気づく、聴く、言い切る、自分を保つ。どれも特別な才能ではなく、EQと呼ばれる領域の、日々の行動です。行動である以上、組織として鍛えていくことができます。

10月は、ゴールではなくスタートライン

義務化への対応は、済ませてしまえば終わる「宿題」に見えるかもしれません。実際、規程と窓口を整えるだけなら、数か月で形になります。しかし器に魂を入れるのは、施行日の翌日から始まる、現場の日々の関わりです。

お客様を大切にすることと、従業員を差し出すことは、違います。むしろ、理不尽から守られているという安心があってこそ、従業員は本当に良いサービスを長く提供できます。この10月を、その当たり前を組織の隅々まで届け直す機会にできるかどうか。問われているのは、コンプライアンスの完成度ではなく、働く人の感情を扱う組織の力なのだと思います。

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